作曲家シュモールについて("The Etude"誌より)
アントン・シュモール Anton Schmoll (1841年8月17日:独 - ca.1931:仏?)
シュモールはドイツに生まれ、フランスで活躍した作曲家・ピアノ教師。
性格的な教育的小品や練習曲を多数残しています。
日本では"ポロネーズ"(Polonaise Op.50 No.23)と"スペインの思い出"(Op.50 No.24)でその名を残し、
"シュモーのサルタレロ"と呼ばれる"サルタレロ"(Saltarelle Op.50 No.19)は外国でも知られているようです。
またシュメルの名で"ばら、マズルカ"(Op.50 No.1)もよく弾かれているようです。
これらはすべて25曲からなる"Op. 50"、
"Les Étrennes du Jeune Pianiste, 25 Récréations Mélodiques et Progressives",
『若いピアニストの贈り物:進歩的で旋律的な25の気晴らし』に収められたものです。
なお、"スペインの思い出"の原題については
"鈴とカスタネット、スペイン奇想曲/Grelots et Castagnettes, Caprice espagnol"となっていました。
以下に"The Etude"誌(1900年2月分)*1よりシュモールの半生を引用します。
1841年8月17日、ドイツのクロイツナハ近くのFromberg?*2に生まれる。
7歳[1848]、義理の兄弟、Martin Ehrhardtのもとでピアノを習い始める。
熱心で勤勉な姿に打たれ、Antonの父親に専門的な教育を受けられるケルン音楽大学を勧めるが
父親は息子の音楽のキャリアに偏見を持っていて、提案を拒否した。
10歳[1851]、オルガンにも熱中し始める。
12歳[1853]、コンサートで自作のマズルカを演奏し、厚い歓迎を受ける。
父親はまだAntonが音楽家になることを固く認めなかった。
それはAntonを鉱山技師にすると決めていたからである。
18歳[1859]、父親の思惑どおり鉱山学校に入り、土木工学を学ぶ。
そこで2年間過ごし、それから軍に慣例の3年間務めることを余儀なくされる。
23歳[1864]、ドイツ軍の兵役義務の任期を満了したとき、音楽に身を捧げると決心する。
ドイツの公民権を手放し、ドイツを去り、カルカソンヌに近い南フランスで控えめな立場をとった。
そこで余暇を作曲、対位法、和声の勉強に捧げた。
1867年[26歳]、トゥールーズに移り、そこで彼の優れた堅実な音楽的な質と作曲法で
多くの友人と生徒を得た。
1872年[31歳]、ブリュッセルに移る。しかし2年後[1874年:33歳]に去り、パリに住居を定める。
彼は暇暇を科学哲学の疑問に充てた。
天文学者カミーユ・フラマリオン(1842-1925)の研究に熱烈に感心し
結果として天文現象の研究と天文学者とともに親交関係を築く。
1887年[46歳]、フラマリオンの招待で彼はフランス天文学会の12人の創設者の一人になった。
彼は1887年と1892年に学会に先んじて"太陽黒点の統計"をもたらし
科学アカデミー(フランス)の報告の中で好意的に認められた。
~
[]内の西暦と満年齢は単純計算の参考の値です。
40代後半からは天文学の論文を発表するなど、多方面で活動的な人で
また、小さい練習曲1つにも献呈先を付すほど人脈が豊かな人だったようです。
●新たな情報を記事にしました↓
作曲家シュモールについて(教則本Opp.91-95より)
出典・参考:
*1) "A. Schmoll." The Etude Magazine. Volume 18, Number 2. February 1900. 51.
https://archive.org/details/EtudeFebruary1900/page/n6
"Anton Schmoll." IMSLP. https://imslp.org/wiki/Category:Schmoll,_Anton 作品50及び、没年参考。
*2) BNE catalog http://catalogo.bne.es/uhtbin/authoritybrowse.cgi?action=display&authority_id=XX1421040
Stromberg生まれとある。バート・クロイツナハに近い。Frombergは遠いので誤りか。
シュモールはドイツに生まれ、フランスで活躍した作曲家・ピアノ教師。
性格的な教育的小品や練習曲を多数残しています。
日本では"ポロネーズ"(Polonaise Op.50 No.23)と"スペインの思い出"(Op.50 No.24)でその名を残し、
"シュモーのサルタレロ"と呼ばれる"サルタレロ"(Saltarelle Op.50 No.19)は外国でも知られているようです。
またシュメルの名で"ばら、マズルカ"(Op.50 No.1)もよく弾かれているようです。
これらはすべて25曲からなる"Op. 50"、
"Les Étrennes du Jeune Pianiste, 25 Récréations Mélodiques et Progressives",
『若いピアニストの贈り物:進歩的で旋律的な25の気晴らし』に収められたものです。
なお、"スペインの思い出"の原題については
"鈴とカスタネット、スペイン奇想曲/Grelots et Castagnettes, Caprice espagnol"となっていました。
以下に"The Etude"誌(1900年2月分)*1よりシュモールの半生を引用します。
1841年8月17日、ドイツのクロイツナハ近くのFromberg?*2に生まれる。
7歳[1848]、義理の兄弟、Martin Ehrhardtのもとでピアノを習い始める。
熱心で勤勉な姿に打たれ、Antonの父親に専門的な教育を受けられるケルン音楽大学を勧めるが
父親は息子の音楽のキャリアに偏見を持っていて、提案を拒否した。
10歳[1851]、オルガンにも熱中し始める。
12歳[1853]、コンサートで自作のマズルカを演奏し、厚い歓迎を受ける。
父親はまだAntonが音楽家になることを固く認めなかった。
それはAntonを鉱山技師にすると決めていたからである。
18歳[1859]、父親の思惑どおり鉱山学校に入り、土木工学を学ぶ。
そこで2年間過ごし、それから軍に慣例の3年間務めることを余儀なくされる。
23歳[1864]、ドイツ軍の兵役義務の任期を満了したとき、音楽に身を捧げると決心する。
ドイツの公民権を手放し、ドイツを去り、カルカソンヌに近い南フランスで控えめな立場をとった。
そこで余暇を作曲、対位法、和声の勉強に捧げた。
1867年[26歳]、トゥールーズに移り、そこで彼の優れた堅実な音楽的な質と作曲法で
多くの友人と生徒を得た。
1872年[31歳]、ブリュッセルに移る。しかし2年後[1874年:33歳]に去り、パリに住居を定める。
彼は暇暇を科学哲学の疑問に充てた。
天文学者カミーユ・フラマリオン(1842-1925)の研究に熱烈に感心し
結果として天文現象の研究と天文学者とともに親交関係を築く。
1887年[46歳]、フラマリオンの招待で彼はフランス天文学会の12人の創設者の一人になった。
彼は1887年と1892年に学会に先んじて"太陽黒点の統計"をもたらし
科学アカデミー(フランス)の報告の中で好意的に認められた。
~
[]内の西暦と満年齢は単純計算の参考の値です。
40代後半からは天文学の論文を発表するなど、多方面で活動的な人で
また、小さい練習曲1つにも献呈先を付すほど人脈が豊かな人だったようです。
●新たな情報を記事にしました↓
作曲家シュモールについて(教則本Opp.91-95より)
出典・参考:
*1) "A. Schmoll." The Etude Magazine. Volume 18, Number 2. February 1900. 51.
https://archive.org/details/EtudeFebruary1900/page/n6
"Anton Schmoll." IMSLP. https://imslp.org/wiki/Category:Schmoll,_Anton 作品50及び、没年参考。
*2) BNE catalog http://catalogo.bne.es/uhtbin/authoritybrowse.cgi?action=display&authority_id=XX1421040
Stromberg生まれとある。バート・クロイツナハに近い。Frombergは遠いので誤りか。
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