そらぞのの音楽帳

歴史に埋もれた作曲家の再発掘・紹介など

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ブログ報告(12/07) 

 

11月までにRohde、Schmoll、Lichner、Hackhについての記事を修正しました。

まだ修正したい箇所はありますが、見直していたらものすごい計算ミスなどがあり

そうしたものを優先して公開し直しました。また、出典元の整理などなど。


これからも作曲家の記事を見直して行きながら、録音記事も修正して公開し直します。
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再開します 

 

空苑です。

仕切り直しでブログ移転も考えましたが、記事へリンクして頂いてるものもあるだろうということで

記事整理はまだですが、一応ブログは開放しておきます。


今後は作曲家の資料を置いていこうと思いますので、訪問をお返ししたりといった

ブログらしい交流は基本的にしない方針です。


、、、まぁ、気ままにやりますので、よろしくお願いします(笑)

category: 未分類

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作曲家ハック(ハックウ)について 

 

今回は"舟歌"(バルカローレ)で名を残すハックウまたはO.ハックについて調べてみました。

以下に1919年のBaker's Biographical Dictionary of Musicians*1の記事を基にまとめています。


  オットー・クリストフ・ハック (Hackh, Otto Christoph)

  1852年9月30日、現ドイツのヴュルテンベルク*2王国の首都シュトゥットガルトに生まれる。

  1871~5年、シュトゥットガルト音楽演劇大学(Stuttgart conservatory)で
  ピアノをDionys PrucknerとWilhelm Speidelに、和声と作曲をSeifrizに、生徒として学ぶ。

  1872~5年[20-23歳]、Speidelの最初の助手(助教)をする。

  1877~8年[25-26歳]、Speidelの演奏旅行でドイツ、ティロル、そしてスイスを回る。

  1878年の間、ロンドンで教えつつ、コンサートを行った。

  1879年に演奏旅行。

  1880年[28歳]にアメリカのニューヨークに行き、
  そこで1889年[37歳]までGrand conservatoryのピアノ部門の主任だった。

  1887~8年[35-36歳]にはニューヨークにてAnton de Kontskiにピアノを師事。

  それから、次いで2年間個人的に教えた後、
  1891~95年[39-43歳]に外国へ*2。精神的消耗の療養のためにヨーロッパで3年を過ごす。

  1895年からはニューヨークとブルックリン[98年まで市]で再び教師をしながら作曲家をした。

  1917年9月21日、ブルックリンで亡くなる*2。[64歳]


色を薄くしている文字は推測です。小さいカッコ内の満年齢は単純計算の目安です。

故郷のヴュルテンベルク王国はこのあとすぐに王政が廃止されて
現在はバーデン=ヴュルテンベルク州。シュトゥットガルトはこの州都になっています。


O.ハックにピアノを教えたPrucknerはディオニュス・プルックナー(1834-1896)で
シュトゥットガルト音楽演劇大学の教員だったとあります。*3
フランツ・リストの弟子で"2つの演奏会用練習曲 S.145"を献呈されています。
Wilhelm Speidel(1826-1899)はその大学の創立者の一人。ピアニスト。*4
SeifrizはMax Seifriz(1827-1885)、作曲家・ヴァイオリニスト。1971年から大学の音楽主事。*5

その後のA. de Kontskiはアントン・ド・コンツキ(1817-1899)。
ポーランド出身の世界的なピアニストで、若いときにはモスクワでジョン・フィールドに習った。

ということで、言ってしまえばO.ハックはリストやフィールドの孫弟子の関係と言えます(!)
ニューヨークで師事したコンツキもまた凄腕の作曲家兼ピアニストです。


肖像画については以下のものがありました。
The Brooklyn Daily Eagle. 27 Oct 1895. p.21. Brooklyn pubric library.
 http://bklyn.newspapers.com/image/50403235/ 新聞記事。右下の一番小さい肖像画がO.ハック。


出典:
*1) Theodore Baker. Baker's Biographical Dictionary of Musicians. 3rd ed. 1919. p.350.
 https://archive.org/details/bakersbiographi00bake/page/350
*2) George Grove. Dictionary of music and musicians : American supplement. 1920. p.57.
 https://archive.org/details/dictionaryofmusi00grov/page/56

*3) Baker. p.725.
  "Dionys Pruckner" Wikipedia (en). https://en.wikipedia.org/wiki/Dionys_Pruckner
*4) Baker. p.893.
  "Wilhelm Speidel (Musiker)" Wikipedia (de). https://de.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_Speidel_(Musiker)
*5) Baker. p.862.

"ヴュルテンベルク" Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴュルテンベルク

category: 作曲家の資料

tag: 音楽  O.ハック  ハックウ 
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作曲家H.リヒナーについて 

 

日本において"勿忘草(わすれな草)"や"ジプシーの踊り(ジプシーダンス)"などで知られる
ハインリ(ッ)ヒ・リヒナーについて。

以下に1919年のBaker's Biographical Dictionary of Musiciansの記事*1を引用します。


  ハインリヒ・リヒナー (Heinrich Lichner)

  1829年3月6日、当時のプロイセン領シュレージエン地方のHarpersdorfに生まれる。
  [現在のポーランド、ドルヌィ・シロンスク県Twardociceにあたる。]
  1898年1月7日、ブレスラウ:Breslauにて亡くなる。[68歳。現ポーランドのヴロツワフ:Wrocław]

  ブンツラウ:BunzlauにてKarl Karow*2に、ベルリンでSiegfried Wilhelm Dehn*3に、
  それからブレスラウでJ. T. Mosewius*4E. F. Baumgart*5、そしてAdolph Hesse*6に師事。

  そこ[ブレスラウ]で1万1千人の乙女の教会(the Church of the 11,000 Virgins)の
  カントル・オルガン奏者、また合唱団の指揮者になった。

  作品は平凡なソナティナなどのポピュラーなピアノ曲、讃美歌、合唱曲・歌曲。


色を薄くしている人名は同辞書の該当項目より参照。


リヒナーの生きた地域はプロイセン(王国)領シュレージエン地方として生涯にわたり存続しました。
現在のポーランドのドルヌィ・シロンスク県にあたり、細かい地名も改められています。

プロイセン占領下に由来する名前や文化から、日本では現ドイツの作曲家と紹介されているようです。

1万1千人の乙女の教会とは聖ウルスラ教会のことだと思われます。
Youtubeでは、ソナチネ(ソナティナ)もよく見られリヒナーの功績の一つと思われます。


出典・参考:
Theodore Baker. Baker's Biographical Dictionary of Musicians. 3rd ed. 1919.
 *1) "Heinrich Lichner." p.533.
 *2) "Karl Karow." p.452. (1790-1863)、ブンツラウの音楽教師。
 *3) "Siegfried Wilhelm Dehn." p.198. (1796?-1858)、ジークフリート・デーン、理論家。
 *4) "Johann Theodor Mosewius." p.626. (1788-1858)、オペラ歌手・ブレスラウの大学の音楽主事。
 *5) "Expedit Friedrich Baumgart." p.56. (1817-1871)、ブレスラウの大学の音楽主事・教師。
 *6) "Adolph Friedrich Hesse." p.395. (1808?-1863)、アドルフ・フリードリヒ・ヘッセ。
     ブレスラウ生まれのオルガニスト。

"シレジア" Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/シレジア

category: 作曲家の資料

tag: 音楽  H.リヒナー 
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作曲家シュモールについて 

 

アントン・シュモール Anton Schmoll (1841年8月17日:独 - ca.1931:仏?)

シュモールはドイツに生まれ、フランスで活躍した作曲家・ピアノ教師。
性格的な教育的小品や練習曲を多数残しています。

日本では"ポロネーズ"(Polonaise Op.50 No.23)と"スペインの思い出"(Op.50 No.24)でその名を残し、
"シュモーのサルタレロ"と呼ばれる"サルタレロ"(Saltarelle Op.50 No.19)は外国でも知られているようです。
またシュメルの名で"ばら、マズルカ"(Op.50 No.1)もよく弾かれているようです。

これらはすべて25曲からなる"Op. 50"、
"Les Étrennes du Jeune Pianiste, 25 Récréations Mélodiques et Progressives",
『若いピアニストの贈り物:進歩的で旋律的な25のレクリエーション』に収められたものです。

なお、"スペインの思い出"の原題については
"鈴とカスタネット、スペイン奇想曲/Grelots et Castagnettes, Caprice espagnol"となっていました。


以下に"The Etude"誌(1900年2月分)*1よりシュモールの半生を引用します。


  1841年8月17日、ドイツのクロイツナハ近くのFromberg?*2に生まれる。
  7歳[1848]、義理の兄弟、Martin Ehrhardtのもとでピアノを習い始める。
  熱心で勤勉な姿に打たれ、Antonの父親に専門的な教育を受けられるケルン音楽大学を勧めるが
  父親は息子の音楽のキャリアに偏見を持っていて、提案を拒否した。

  10歳[1851]、オルガンにも熱中し始める。
  12歳[1853]、コンサートで自作のマズルカを演奏し、厚い歓迎を受ける。
  父親はまだAntonが音楽家になることを固く認めなかった。
  それはAntonを鉱山技師にすると決めていたからである。

  18歳[1859]、父親の思惑どおり鉱山学校に入り、土木工学を学ぶ。
  そこで2年間過ごし、それから軍に慣例の3年間務めることを余儀なくされる。
  23歳[1864]、ドイツ軍の兵役義務の任期を満了したとき、音楽に身を捧げると決心する。
  ドイツの公民権を手放し、ドイツを去り、カルカソンヌに近い南フランスで控えめな立場をとった。
  そこで余暇を作曲、対位法、和声の勉強に捧げた。
  1867年[26歳]、トゥールーズに移り、そこで彼の優れた堅実な音楽的な質と作曲法で
  多くの友人と生徒を得た。
  1872年[31歳]、ブリュッセルに移る。しかし2年後[1874年:33歳]に去り、パリに住居を定める。

  彼は暇暇を科学哲学の疑問に充てた。
  天文学者カミーユ・フラマリオン(1842-1925)の研究に熱烈に感心し
  結果として天文現象の研究と天文学者とともに親交関係を築く。
  1887年[46歳]、フラマリオンの招待で彼はフランス天文学会の12人の創設者の一人になった。
  彼は1887年と1892年に学会に先んじて"太陽黒点の統計"をもたらし
  科学アカデミー(フランス)の報告の中で好意的に認められた。
  ~

()内の西暦と満年齢は単純計算の参考の値です。


40代後半からは天文学の論文を発表するなど、多方面で活動的な人で
また、小さい練習曲1つにも献呈先を付すほど人脈が豊かな人だったようです。




出典・参考:
*1) "A. Schmoll." The Etude Magazine. Volume 18, Number 2. February 1900. 51.
 https://archive.org/details/EtudeFebruary1900/page/n6

"Anton Schmoll." IMSLP. https://imslp.org/wiki/Category:Schmoll,_Anton 作品50及び、没年参考。
*2) BNE catalog http://catalogo.bne.es/uhtbin/authoritybrowse.cgi?action=display&authority_id=XX1421040
 Stromberg生まれとある。バート・クロイツナハに近い。Frombergは遠いので誤りか。

category: 作曲家の資料

tag: 音楽  A.シュモール 
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